胆振東部地震から3年

9月4日くらいから、珍しく北海道に台風が上陸して(温帯低気圧に変わっていたかもしれない)木の葉が乱れ飛んでいる中を歩いた記憶がある。川の水は濁り、濁流になって水かさが増していた。

恐ろしい台風だったなと思いながらも、あと2日頑張れば休みだなどと全くもって普通通りの木曜日を迎えるつもりでいた。

なぜか3時頃、人の声で目が覚めた。
聞き取れないものの警報がなっていたようなので目を開けると、その瞬間天井がグラグラと揺れた。天井が揺れたのではなくて、正確にはベッドがグラグラと揺れていたのだが。
窓枠もガタガタと軋み、経験したことのない揺れを感じた9月6日3時頃。
習慣でツイッターを開いて「地震やばい」とつぶやいた。震度は6と報道されていた。慌ててテレビをつけると、アナウンサーが険しい顔で北海道で大きな地震がありましたと言っていた。震源が厚真だったことにも驚いた。ここでこれくらいゆれたのなら、震源はどうなっているんだ。
そして、ここから私は約4日ほど、テレビを見られなくなる。


怖くなり布団の中に戻って、スマホで情報を集めた。停電したらしいことを、ツイッターで知った。充電はしていたのでほぼ100%だった。慌てて照度を最弱にして、できるだけ電池を使わないようにした。少し迷ってから、近所のコンビニで(停電中も開けてくれていた)充電器とコーヒー(人間、恐ろしいときほどいつも飲んでいるものを飲みたくなるものだと思う)とすぐ食べられるものをちょっとだけ買った。会計はすべて現金のみだった。店員さんが一生懸命会計をしてくれた。
ここからの避難生活は、セイコーマート・トライアル・ツルハなど様々な小売店にお世話になりながら生きられたと思う。同じ被災者でありながら、お互いに敬意を持って接していたと思う。なぜなら、皆規則正しく、そして誰一人罵声など飛ばしていなかったから。

実家が近いので実家に避難させてもらい、電気のない生活を数日ほど送った。
帰宅してみると、冷蔵庫のものは全てダメになっていた。この冷蔵庫はその後も1年ほど頑張ってくれたが、買い換えることになった。
ブレーカーを上げて電化製品が作動する感動、親と一緒にいたときに突然電気がつく感動、21時なのに携帯もなく眠れたこと、何も邪魔がないきれいな夜空、色々なものを犠牲にして、今の生活は成り立っているんだとしみじみ感じた年だった。

あれから、数ヶ月ほどは風呂の中に水を貯める生活を送っていたものの、いつのまにかそれを忘れ、まるで震災前と同じように生きている。
電池がなくなるのは怖いので、モバイルバッテリーのみ2つ購入したが、そもそも基地局がダメになったので情報収集として一番大切なのは電池で動くタイプのラジオだ。電波が回復したとしても、ツイッターで毎日のように流れてくるデマ情報に辟易していたし、そもそも安定した電波ではないので、ネットをみることは諦めていた。

私の中では地震は「恐怖」都市でしか記憶されておらず、それに対する備えが未だにできていないことは本当に恥ずかしい限りだ。
あの恐怖を思い出すだけでトラウマになっていたものの、3年という節目で改めて震災についての備えを改めたい。

最後に、犠牲者の方へご冥福をお祈りします。