病気になりました

もともと私は真面目系クズです。
何事にも真面目に取り組んでいるふりをして、実は手の抜きどころを探していたりします。でも私は不器用なので、その手抜き部分が見つかってしまい、怒られることが多かったです。

で、なぜ今こんな話を突然するかというと。実は鬱になりました。
この病気になるのは、初めてではありません。一番最初に発症したのは、私がまだ新卒で働いていた職場でした。
色々と身内のことで病気が重なり、責任ある仕事についていた私は休むことができず、地元を離れてなぜ今ここに私はいるのだろうと、なぜ平然と仕事をしているのだろうと考えて職場で自然と涙が溢れました。
実はその前に予兆があり、経験したことのない胃の痛み、吐き気がありました。胃液だけを出すこともしばしばありました。
当時のことはあまり覚えていないのですが、「胃潰瘍、十二指腸潰瘍になってたんですね。治りかけていますが」という医者の言葉は今でも覚えています。それが21歳の頃でした。

その後、職場で泣く私に上司が休みを取らせてくれて、病院に行き、精神安定剤を処方され、地元に帰り、落ち着いたころ、「そろそろ戻れるか?」と上司から連絡がありました。何日休むかも決めていなかったので、大丈夫です、と言って私は地元を離れました。

その後、色々あって、その職場を辞めて次の職場に行きました。また地元から離れた場所でした。その頃はすっかりそんな病気のことも忘れていたんですが、完治はしていませんでした。鬱はもともと完治にすごく時間のかかる病です。また、今でこそ理解がある職場が多いですが、当時は差別的なことも言われることもありました。

私はそれが怖くて、言い出せずにその職場で働きましたが、結局半年も持たずに職場を辞めました。前述した職場と違い、全く新しい環境で、全くわからない仕事をしていて、誰も頼れない状況になり、悪化したのだと思います。
そのときに母親にやっとの思いで打ち明けた時の言葉は、今でも覚えています。
「こっち(地元)に戻っても働き口はないよ」でした。
自分への心配は最後までなかったと思います。厳格な母なので。

それでも地元に戻って、色々と仕事をしながら家の手伝いをして、また私はこの病に打ち勝てたんだなあと思っていました。いや、むしろ忘れていました。

そこから何社か色々な仕事をさせてもらっていて、どこも多忙を極めるような仕事ではなかったからだと思います。

その後、詳細はぼかしますが、うつになりました。とりあえず生きるためにお金を稼ぐために働いていました。正直いつ辞めてもいいなとも思っていました。
そんな中で給料が少し上がり、お金に目が眩んだ私は更に仕事を頑張りました。仕事の量は二倍に増えました。残業の量も二倍に増えました。そして、病みました。

心の病気というのは、目で見てわかるものではないです。だから、はたからみたらすごく元気そうに見えると思います。ツイッターもできるのに、ゲームもできるのに、どうして病気なんだという人もいると思います。
でも、何に置いても前のように、発症前のように楽しいと言う気持ちはどこかに飛んでいってしまうんです。今までやっていたことが楽しくないという辛さは、本当に本当に悲しい気持ちになります。
薬を飲んで治るのかという不安もあります。薬漬けになるのではないかという不安もあります。どうでも良くなってきている自分もいます。
ただ、この間見た飛行機雲がとても綺麗で、またいつかそれを見たいために、私は今日も生きています。

年末のご挨拶

2ヶ月ぶりの更新になってしまいました、

あと2日で早いもので
今年が終わろうとしています。みなさんはどんな一年だったでしょうか。

コロナの影響で思い通りに生活することがままならず、得体の知れないウイルスに対してストレスが溜まる一年だったと思います。

ただ、それでも今年1年を乗り越えることができた、私はそう思います。

今年の上半期、北海道で一足先に非常事態宣言がだされました、
北海道民は、あれからずっと長い冬を過ごしていたような気がします。
それから、徐々に感染者が増えて首相が緊急事態宣言を出した時、、、、


いや、もう面倒くさくなってきました。
十分頑張った。私達は来る日も来る日もアルコールスプレーで消毒してマスクとトイレットペーパーを探し回った。いろんなデマに踊らされないように、ただでさえ精神的に参っているのに、更にテレビで毎日毎日記録更新しましたとニュース速報を出す。それ、なんか意味がありますか?それを出してきゃー怖いって思ってほしいんですか?そんなことされるまえからずっと、ずううっと私達はこのウイルスに怯えて、わけもわからず対策して、これ以上何をしたらいいんだよ!

って、思っています、いまは。




正直、コロナと母親のガンがダブルで来て、おまけに仕事もキャパオーバーで帯状疱疹を20年ぶりに発症するのも必然だったなって思うし。

それでも!
生きたの、私は。今年はなんとしてでも生きてやる、生きていかなきゃって思ってるんだ。
コロナで亡くなってしまった方々には謹んでお祈り申し上げます。
のこされた私達がちゃんと生きないと、なんかだめじゃんってなる気がするから。

私は生きる。
来年も、しぶとく、親孝行しながら生きます。

最後に。
こんな支離滅裂な内容なのにここまで読んでくれてありがとうございます。
今年泣いたあなたも。
今年笑うことができたあなたも、
今年悔しかったあなたも、
今年、全てがつらかった、それでも懸命に生きている皆様へ。




今年1年、本当に本当に本当に、お疲れ様でした!!!!!
また来年、今度こそ笑って過ごせる一年に、最高の2021年を迎えられますように!!!!!


北海道の隅っこで、皆様の御多幸をお祈りしています。


それでは、良いお年を。

昨日から、実家に帰って泊まりです。
本人と話して、これからのことを話しながら泣いてしまいました。

あんたが泣くことじゃないのよと、子供がならなくて良かったと言われて、更に泣きました。
どうしてと何度も言うわたしに、仕方ないのと言ってくれて、ますます涙が止まりませんでした。

普通に過ごしているときも、しばらくこうした普通の生活ができなくなると考えると、胸が苦しくなってたとえようもない気持ちになっています。


自分がこんなに弱い人間だったんだなと改めて思いました。

今日は兄弟の子供も泊まりにきて、三人で川の字になってお泊り会をしました。
夜遅くまで飲んで、しゃべっていると病人だということを忘れるけど、こんなに夜遅くまで起きてて大丈夫なのかなという気持ちもありました。

病気を勉強するにあたって、本を数冊買ったのですが、それを読むと色々な問題も書いてあって、ますます気持ちが暗くなりました。
全て一通り目を通しましたが、結局お医者さんからの返答がないとわからないので、そのままそれはそれとして知識として吸収しました。

数日間本人と過ごして、色々やりたいことを聞いて、少しでも準備ができたので、この数日で気持ちの整理が少し出来たような気がします。本人はもともとそういう感情を表に出すのが苦手な人だから、何を思っているかわからないけど。

私の人生って、今まで本当に家族に依存していたんだなあって。その基盤がぐらぐらと揺れている今、結局何も考えられないんだなって思いました。それも私の弱さ。
これからは強くならなきゃいけない。心配かけたらいけないし、心配する側の立場として尽くしたいと思ってる。でも、周りから私の心配をされることに対しては、多分、手術後の経過の具合だと思う。


今まで健康で普通の生活を送れていたことって、決して本当に普通じゃないんですよ。だから、昔の人がよく言う、ありがとうという感謝の気持ちを日頃から伝えようっていうのも、本当にそのとおり。思ったときその瞬間に言わなきゃだめなんだなと思います。

色々、多少心の整理がついたのと、まだ手術の日もあるので、落ち込んでばかりもいられなくて。久しぶりにゲーム開いたら、やっぱり二次元っていいものですね。熱中することで、何かいろんなことを忘れられる。


あれだけ自炊していた私だけど、ここ数週間ほぼ半額弁当祭りです。本当に食欲がないというか、食べたいと思うものがないから、空腹を満たすことができれば何でもいいと思って食べてる。気が気じゃないってこういうときに使うんだろうなって。四六時中、気を張って生活しているような気もします。

それでも、私がいないと世話とかも難しくなるから、家族でみんなで力を合わせて頑張るしかないんだよな。疲れたししんどいけど、本人が一番つらいからそんなこと思うことが間違っているし。

とにかく治りますように。

先日、まだ傷が言えないと言っていたわたしだったけど。
今度はもっと大きな試練が訪れました、
私にとってかけがえのない家族の病です。

私にとっては大切で大切で仕方ない人なので、本当にどうしていいかわからない日が続いています。

仕事をしている最中は何も考える暇もないけど、仕事が終わってからとか、ふと時間ができた瞬間に涙がとまらなくなります。

家族が何をしたっていうんだろう。
普通に暮らしていた、ただそれだけなのに。

大好きな芸能人が自死したときも号泣したけれど、今回はもうそれを遥かに超えるような辛さがあります。

診断を聞く前に、本人から電話で良くない結果だったということはきいていたけど、病院で先生から改めて言われると、そのときにもう絶句してしまって、頭の中が真っ白になりました。

そこからすぐに色々と検査をして、まる一日病院にいたけど、病院の中には他にも沢山人がいて、自分一人ではないんだな、とそれだけ考えました。でもその後に、こんなに世の中に人がいるのに、どうして私の家族なんだろうと、なんで家族がこんな目に合わなきゃいけないんだろうと思って、病院の廊下の隅で少し泣きました。

患者本人の前で泣けないと思ったからです。
自分よりも本人が一番辛いのに、私が泣くわけに行かないから、と耐えていたけど、そのせいであまり顔が見られなかったのは申し訳なかった。

そこからこのあとのスケジュールを説明されて、しっかり聞かないと、と話を聞いてメモしました。

その日は色々と、疲れがたまっていたのか横になってすぐ寝てしまいました。

翌日から、どうしようもない不安が襲ってきました。やりきれない気持ち、友達に言っても、きっと私の気持ちなんてわからないだろうと思ってしまいました。それでも、友達はみんな私のことを心配してくれました。

でも、私なんて本当にどうでもよくて。
ただ家族を救えるなら、それで良かった。

色々と、相談する中で、救われることもあれば、本当に?と思うこともあって。
なにもかも、疑心暗鬼になっていたり、過敏になったりしているのかもしれないです。

そして、職場で笑ったり買い物をしたりしているときに、家族が大変なのに私が楽しんではいけないという罪悪感に襲われるようになりました。結局、家族を助けるために勉強して、今必要なものを買い揃えています。
ただ、その間にふとした瞬間ぶわっと感情の波が押し寄せてきて泣くし、辛いし、不安だし、悲しいし、それでもどうしていいかわからなくて、困ったなという気持ちです。

最初はブログに書く予定はなかったけど、気持ちを吐き出してしまいたかった。そして、いつか治ったときにこんなこともあったねと笑えるように残しておきたかった。
今は、絶対に負けないっていう気持ちだけで、なんとか動いています。

今これを縁あって読んでいる方も、周りの人たちを大切に、そしていつでも笑いあって下さい。笑うのは健康への近道だから。

私はもうしばらく、見えないトンネルを家族と手を繋いで進んでいこうと、思います。大丈夫、大丈夫って、言い聞かせて、信じたいと思います。私が助ける、という強い気持ちを持っていたい。

生きることより死ぬことのほうが、と

7月のあの日から、まだ二ヶ月、もう二ヶ月。

直後は辛くて、何も手につかなくて、泣いて泣いて。原因がわからなくて悔しくて悲しくて、どうしようもないことなのに何かできることはなかったのかと、自問自答する日々で。
一ファンができることなんてないから、周りの人がどうか救いの手を、と思っていたのだけど。

それから、芦名星さん、今日は竹内結子さん…。

訃報を聞くたびに胸が苦しくなって息がしづらくなって手が震えてくる。
多分、春馬くんのことがトラウマになっちゃっているのかもしれないと思う

絶対に死ぬことなんてないことはないのはわかっている、人はいずれ死ぬのもわかってる。でもそれは今日ではなくて、いつかの未来の話だと思ってるから、受けとめきれないよね。


死に縁遠いと思っていた、太陽のような春馬くんが旅立ってしまうことで、周囲の人たちの死へのハードルも下がったのかもしれない。春馬くんが選ぶなら私もって。

死ぬことより生きることのほうが遥かにつらいこともあるよ。それはあるんだけど、それでも生きていてほしい、このブログを読んでくれてる人がいるのであれば、そっちの選択肢をとる前にどうか誰でもいいから一言でもいいから相談してみて、一言辛いって言ってみて、と思う。

と、言いつつも私も芸能人の死を見るたびに引っ張られそうになるけど
今の日本じゃ自分は生きる屍のようなものだものね

コロナがなければきっと、もっとみんな普通に笑えていたのにね

コロナが憎いよ、コロナのせいで何人亡くなったんだろう。やり場のない怒りが増幅して、その後もういいってなってしまうよね

芸能人だって人の子なんだから、生きているだけで充分に大変なのにさらに周りからの評価が日本国民、世界規模であるんだからプレッシャーも半端ないだろうし

色々纏まりのない文章だけど……受けとめきれないけど私はこの二ヶ月すごく頑張ったよ、よく頑張りましたって自分にはなまるをあげたいよ、頑張っていきたもの。
みんなそうだよ、今地に足をつけて生きてるみんな、みんな偉い。みんなすごい。だから、………だから頑張らなくてもいいから辛いときは辛いっていおう、今みんな辛いよね。辛いっていうことは何も恥でもないよ
生きるのは辛いんだよ当たり前、全部当たり前なんだよ……

何が言いたいのかわかんなくなっちゃった。
春馬くん……
コンフィデンスマンまたもう一回見に行くね。竹内結子さんもとてもいい演技されてたし、春馬くんもかっこよかったし他の共演者さんも素敵だったんだよ……
またぶり返してきたなあ…生きてるの辛いなあ

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」


私はおばあちゃん子だった。
昔から両親共に共働きで、昭和世代の私にとっては甘やかしてくれるおばあちゃんがいないと何もできなかった。
そして甘えていた。

服を脱いだらまとめてくれるのがおばあちゃん、ご飯を用意してくれるのもおばあちゃん、お小遣いをねだる孫に優しくお金をくれたことも数え切れない。今考えても全然可愛くない孫だなと思う。

そんなおばあちゃんに、私は昔ひどいことをしてしまった。

私の好物はゆりの煮物(北海道では割とポピュラーな食べ物。ゆりの根を甘く味付けしたもの。ホクホクとした食感でじゃがいもみたいなでんぷん質)だった。
おばあちゃんが作るゆりの煮物が大好きで、当時はおやつなど買ってもらえないほど貧乏だったので、それがおやつ代わりだった。

ある日学校から帰宅して、それがどうしても食べたくなって「なんでないの!!!」と怒りちらした。馬鹿かなと思う。
おばあちゃんは嫌な顔も見せずにそれを作ってくれた。泣きながら食べたから少し塩味がした。
今思い出しても本当に可愛くない孫だったろうなと思う。

私が大人になり、実家から離れて上京して暫く経ってから、おばあちゃんは老人ホームに預けられた。私は実家に帰る暇がない程働いていて、次に会うことができたのはおばあちゃんが亡くなってしまった時だった。

急いで飛行機のチケットを取ってお休みを頂いて実家に帰って、布団の上で横たわるおばあちゃんを見て、死に際に間に合わなくてごめんなさいと心の中で呟きながら、ポロポロと泣いた。大往生だからと誰も泣いていない中で、私の泣き顔をみた姉が、初めてもらい泣きしていた。

あれから毎回お盆に帰省した際には、仏壇に供えられたおばあちゃんの写真を撫でてきれいにしながら、仏壇のある部屋に泊まるようにしている。おばあちゃんとの空白の時間を少しでも埋めたくて。

おばあちゃん、私大きくなったよ。
おばあちゃんがまだ生きていたら、いっぱい恩返しできたのにな。
いつも見守っててくれてありがとう。
大好きだよ、おばあちゃん。